第1話 広告のぼり

特約店増加の立役者 CMソングのルーツを生んだ楽隊とは!?

(イ)広告のぼり

明治29年、「ライオン歯磨」が新発売されました。当時第1位の売上を誇っていたダイヤモンド歯磨に対抗するために創業者小林富次郎が力を入れたのは、品質と宣伝でした。

 発売から2年目の明治31年、まずは品質を知ってもらいたいと楽隊を組織し、富次郎みずから先頭に立ち東京を出発。沼津、広島、岡山、伊勢路と、43日間の巡回宣伝を行いました。宣伝隊の監督・山崎小八朗は、後に当時の社内報「ライオンだより23号」でこう振り返っています。

 

 「其時代に日本に市中音樂隊と云ふもののあった所は、東京、横濱、大阪、神戸のみでしたので、到る所で樂隊を初めて聞く人が多かったため、僅か六名の樂士が旗を六本立てて町を廻るのに、両側は人山を築き、行進に困難した場合が多かった程で……」

  

(ロ)群歌

この旗こそが、(イ)の「広告のぼり」です。色鮮やかなこののぼりが街の人々の目を引く一方、人々の耳にとまったのが(ロ)の行進曲でした。当時の流行軍歌『四百余州』と『雪の進軍』の替え歌であることから、『群歌』と名付けられました。駄洒落や思わず口ずさんでしまう歌を起用する広告手法は、今も昔も同じのようです。ちなみに、これは恐らく、近代CMソングのルーツと言ってもよいのではないでしょうか。その演奏者が (ハ)の楽隊の面々です。

 

「先に進めない程なんてオーバーなんじゃ…」と、現在店頭でPR活動する販売員も嫉妬してしまいそうな程人気を集めた楽隊でしたが、宣伝の効果はすぐには表れませんでした。それでも、富次郎が、宣伝活動の手を抜くことはありませんでした。

 

(ハ)楽隊の面々

 「植物は常に肥料を要す。肥料がなければ育成せず終には枯死する。この肥料は即ち広告である。若しこの肥料たる広告を怠る時は必ず他品に販路を侵され衰頽するは、他の実例に徴して明かである。」

 

 広告に力を入れるとともに社会貢献へも強い関心を持っていた富次郎の意向で、明治33年には、「ライオン歯磨慈善券付袋入」(※)が発売されました。慈善券の総額は20年間で今でいう約30億円です。この分配先と金額を新聞に発表すると、称賛する者あり、広告戦略かと非難する者ありと、これもまた今も昔も同じのようです。ゆれる世間の反応を前に、富次郎の考えは揺るぎません。

(ニ)新聞広告

 

「人は唯己の利慾の為めにのみ生活するに非ず、事情の許す限りは公益を謀り、博愛慈善の心掛を要す…」

 

 はてさて信念を貫き通した結果は? (ニ)のグラフをご覧ください。当初800万袋だった生産量が10年後には2200万袋に! 巡回宣伝、新聞広告、慈善券の発行などにより、はじめは地方都市に二十数店あるにすぎなかった特約店の数は、百七十店ほどに著しく増加したのでした。

 

※愛用者が支援したい団体に空袋を寄付すると、小林商店が1枚1厘で買い戻すという仕組み。小袋を入れていた上質な外箱を簡単なボール箱にすることで、利益も品質も落とさない社会貢献を可能にしました。

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