第2話 通天閣広告塔

明治大正の街角をフル活用した宣伝活動を大展開! 通天閣の初代電飾広告塔

イメージ:上野広小路広告塔

(イ)上野広小路広告塔

国内産業全般が深刻な不況となる中で、積極的な宣伝活動で売上を伸ばした小林商店(第1話参照)。明治末期から大正の中期に入ると、その宣伝方法はさらにバラエティ豊かなものに進化しました。その一つが街中のあらゆる媒体を活用した街頭広告です。販売店の屋上には看板を掲げ、都会の盛り場には電燈の点滅仕掛けや、(イ)のような動く装置のついた広告塔を設け、街を彩りました。

イメージ:通天閣の絵はがき

(ロ)通天閣の絵はがき

中でも間違いなく最大規模だったのが、浪速のシンボル・通天閣です。明治45年、遊園地ルナパークのシンボルタワーとして建設され、エッフェル塔と凱旋門をイメージした奇抜なデザインで、人々の目をひきました。大正9年、この通天閣の側面に、「ライオンはみがき」の電光文字がまぶしく点灯しました。大阪の夜空を彩る電光文字は、かなりの遠方からでも見ることができ、大阪の風景として人々の心に刻まれることとなりました。さらに、お土産となる絵はがき(ロ)に描かれたことで、宣伝効果は全国に及びました。

ライオンにとって、街頭広告はもちろん、ありとあらゆる宣伝活動を展開したこの時期は、既に現在の広告宣伝の基本形ができあがった時期とも捉えられます。社内報「ライオンだより」(昭和36年発行)で当時取締役の小林辰四郎は語りました。

「初代社長の時代において、我社はすでに今日の宣伝人が強調している各種媒体の徹底的利用、屋外広告、チラシ、見本配布、博覧会利用、交通広告、愛用者優待、ゼミナール、社会奉仕活動、PR並びに企業広告等を巧みに立体化して圧倒的広告宣伝をなし、広告宣伝のパタンを確立した意義を知って戴きたい」

 

この中から、面白い活動を2つご紹介します。

イメージ:市内電車

(ハ)市内電車

一つは博覧会。明治40年頃上野池ノ端で開催された東京勧業博覧会では、特設館を設置し、館の正面に剥製のライオンを陳列しました。当時の博物館の常識からみても大きな剥製で、物珍しさでは群を抜いていました。また、同時に設置された香水の噴水塔も入場者の注目の的となりました。なんだか現代でもウケそうですね。ちなみに、この博覧会のために整備されたのが、(ハ)の市内電車です。この電車の車体を利用して、初めて従来の静的広告とは違った動く広告に挑戦しました。

もう一つは、大正10年の丸ビル開館とともに一階の二室を借り受けて行われた人形劇や写真展・絵画展です。オフィス街の人々に安らぎの場を提供しつつ、歯科診療所を設けて一般来観者に無料で診察を行ないました。昭和を代表する名歌手・藤山一郎氏が初めてステージに立ったのはこの場所です。文化的な香り漂うこの企業宣伝は、知識層の心を掴み、企業イメージを大きく向上させました。

こうして、初代小林富次郎の広告に対する信念は、小林商店の伝統となり経営の要として継承されていきました。

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