岡山孤児院

寄付金を贈られた先はどのように活用したのでしょうか。いずれの施設や団体も、この寄付金が一時的のものでなく毎年継続するものでしたから、しっかりと事業計画を立てて使用することができるので、大変感謝されたようです。
では、岡山孤児院の例を見ましょう。
岡山孤児院は、明治20年(1887年)、石井十次氏が岡山市に創立し、自ら院長として運営していました。
同院はコッテージ・システム(COTTAGE-SYSTEM、小舎制)という教育方針で知られており、保母一人に十数人の子供たちが一つのコッテージ(小舎)で、あたかも家族のように生活していました。
石井十次院長は明治27年(1894年)頃から、フランスの思想家、ジャン・ジャック・ルソーの「エミール」教育の感化を受けて、宮崎県の茶臼原に岡山孤児院の分院を建設し始めました。
そして、明治38年(1905年)から大移住を開始、明治の末には全てを茶臼原に移しました。

岡山孤児院 明治39年の最盛期には1,200名の孤児を養育していた。
(写真提供:石井記念友愛社)

ライオン歯磨慈善券による寄付金は、コッテージ(小舎)の建築に使われています。そして、石井十次院長は慈善券の精神を忘れないために、これらのコッテージを「ライオン館」と名付けました。 「ライオン館」は明治34年(1901年)~明治43年(1910年)までに岡山と茶臼原の地に合わせて10棟が建てられています。 また、茶臼原では慈善券による寄付金で山や畑も購入され、それぞれ「ライオン山」「ライオン畑」と名付けられました。

「ライオン館」の一つ

石井十次院長は、茶臼原230ヘクタールの広大な地に理想的農村共同体を実現しようとしましたが、大正3年(1914年)、志なかばにして倒れました。
彼亡きあと、その事業は大正15年(1926年)に一旦閉じられますが、昭和20年(1945年)10月、太平洋戦争被災孤児救済を目的に「石井記念友愛社」という名前を揚げて、同じ茶臼原の地に再開されました。
そして、現在も活動を続けています。

石井記念友愛社(宮崎県児油群木城町)
子供たちが自立にむけて生活・修行している。
敷地内には明治・大正時代の建物が保存されており、
「石井十次資料館」もある。

なお、岡山市には岡山孤児院の一部(小舎制の家屋1棟)が新天地育児院の敷地内に移築され、「石井十次記念館」として保存されています。