プロ野球(戦後編)

戦前編では「ライオン軍」誕生から、ライオンの名称が使えなくなり消滅するまでを関係資料で確認しました。ここでは戦後編です。

戦災によって廃墟となった日本ですが、人々は復興に向けて立ち上がりました。
スポーツ、なかでも野球の復興は、GHQが力を入れた占領政策のひとつでした。プロ野球についても復興政策が急がれ、昭和20年(1945年)11月16日、日本野球連盟の復活が発表されました。
そして、翌21年から8球団によるプロ野球のペナントレースが開幕しています。巨人、大阪、阪急、セネタース、近畿グレートリング、中部日本(旧・産業)、パシフィック(旧・朝日)、そして旧・朝日から分裂したゴールドスターズの8球団でした。

二リーグ制誕生時のタイアップ

「輪タク」によるパ・リーグ発足
パレード(昭和25年)

ところが、新たに毎日と近鉄が加盟を希望してきたことからもめごとが起こりました。
巨人、中部日本改め中日ドラゴンズ、パシフィック改め太陽ロビンスが両球団の加盟に反対したからです。結局、昭和24(1949年)年11月26日のオーナー会議で、既存8球団と新たな7球団を加えた15チームを2つに分け、セントラルとパシフィックの両リーグ制にすることを決定しました。
セ・リーグは、東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)、大阪タイガース、中日ドラゴンズ、国鉄スワローズ、広島カープ、西日本パイレーツ、大洋ホエールズ、松竹ロビンスの8チーム。パ・リーグは東急フライヤーズ、大映スターズ、阪急ブレーブス、南海ホークス、近鉄パールズ、毎日オリオンズ、西鉄クリッパーズの7チームとなりました。

翌昭和25年(1950年)、ライオン歯磨(株)はこの年の宣伝広告の重点を動物園とのタイアップとプロ野球とのタイアップに置くこととしました。
動物園とのタイアップは、全国各地を巡回した「移動動物園」(各県庁、教育委員会主催、朝日新聞社後援)に協賛しています。
プロ野球については、「ライオン歯磨ご愛用者招待会」を数多く行っています。後楽園球場のスコアーボードの両脇には「ライオン歯磨」の看板を掲げました。
また、大阪支店は京阪神地域に馴染みの深いチームが多く加盟しているパ・リーグと宣伝タイアップをして支援することになりました。

パ・リーグの公式戦開幕を前に、同リーグの発足を祝し様々な催し物が行われています。
先ず、3月10日午前10時、パ・リーグ7球団の結成披露会が梅田劇場で行われました。ステージ上にはライオン歯磨(株)から贈呈された大花輪が飾られています。プロ野球の復興を支援していたGHQからは進駐軍近畿民事部長オモハンドロ大佐がかけつけて祝辞を述べました。
午後1時30分から市中パレードが始まりました。記録によれば、大毎ニュースの車両が先頭となり、次にコロンビアの車両がバンド演奏をしながら続き、その後に7球団の選手と関係者を乗せた輪タク200台が続きました。今日なら当然オープンカーとなるのでしょうが、当時はガソリンが不足していましたから、人力の輪タクが使われたのです。
パレードのしんがりは「ライオン歯磨」と大書し装飾をこらした車両で、40,000枚の公式試合招待券付きラッキーカードを配布しながら進みました。延々1キロにおよぶ長蛇の大行進でした。
この大行進は大阪駅西降車口前広場を出発、日本橋1丁目から戎橋方面に折れ、歌舞伎座前難波ターミナル~高島屋前~松坂屋前、そして近鉄アベノ百貨店前に2時間かかって到着しています。

日本選手権のパ・リーグ
応援ポスター(昭和25年)

夕刻5時からは千日前の大阪劇場でオープニング・ナイトショーが行われました。
「おヽわがパシフィック」の合唱や選手紹介など様々な余興がありました。そして、大阪名物のOSK「春のおどり」で会場は一気に盛り上がりました。フィナーレでは花形選手が観客席にサインボールを打ち込み、午後9時前にお開きとなりました。

3月12日パ・リーグの初試合は西宮球場で行われましたが、ライオン歯磨(株)は愛用者招待会を実施しています。販売店でライオン製品60円買い上げ毎に三角籤抽選を行い、その場で当選者には内野席入場券1枚を進呈するというものでした。

なお、この年はじめて日本選手権(プロ野球第1回日本シリーズ)が行われ、パ・リーグの毎日オリオンズがセ・リーグの松竹ロビンスを4勝2敗で下し栄冠を勝ち取っています。
上のポスターは、この日本選手権を告知し、パ・リーグを応援するために作られたものです。

「ライオン軍」の復活?

昭和26年、西日本と西鉄が合併し、西鉄ライオンズが誕生しました。ライオン歯磨(株)はライオン名が共通するので宣伝面でのタイアップを申し出ています。そして「西鉄ライオンズの歌」の贈呈もしました。サトウハチロー作詞、藤山一郎作曲によるもので、7月29日大阪球場で発表会が行われました。
ちなみに1番の歌詞は「起てり 起ちたり ライオンズ ライオンズ ゆするたて髪 光に照りて 金色まばゆき 王者の姿 九州全土の 聲援受けて 空を仰ぎて 勝利を誓う ライオンズ ライオンズおお西鉄ライオンズ」というものでした。

戦前に大東京軍を支援して「ライオン軍」が誕生し、そして止むを得ない理由により消滅しましたが、戦後はこんな形で「ライオン軍」が復活したのです。
昭和31~33年、三原監督のもとに中西、豊田、稲尾等の選手を擁していた西鉄ライオンズは、「日本一」三連覇を成し遂げました。プロ野球ファンの中には、今なお、この時の西鉄ライオンズが史上最強の軍団であったとする人が少なくありません。

「日米親善野球大会」協賛

日米親善野球ポスター
(昭和30年)

昭和30年(1955年)、全米プロ野球チーム「ニューヨーク・ヤンキーズ」が来日しました。毎日新聞社の招きでステンゲル監督、ミッキー・マントル外野手らニューヨーク・ヤンキース一行69名が10月20日羽田飛行場に到着、11月13日まで全国9都市で16試合を行いました。対戦したのはセ・パ両リーグ在京球団のオールスターでした。
勝敗はニューヨーク・ヤンキーズの15勝0敗1分け。観光も兼ねて来日したニューヨーク・ヤンキーズに対して、日本選手は全力でぶつかっても手も足も出ないくらい実力差があった時代でした。
左のポスターは仙台・宮城球場での日米親善野球を告げるものです。
ポスターの下には「ライオン煉歯磨御愛用者1,000名様御招待!」の販促チラシが貼り付けられています。

ご愛用者招待の内野席引換券
(昭和35年)

ご愛用者招待の内野席引換証
(昭和35年)

スーパー・ホーマー賞

後楽園のスコアボード
(昭和36年)

左の写真は昭和36年(1961年)4月8日、東京・後楽園球場のセリーグ開幕戦です。
行われている試合は巨人対中日戦。スコアボードから試合は5回を終わって1対1とわかります。
巨人軍の選手は1番センター国松、2番レフト高林、3番ファースト王、4番サード長嶋、5番ライト坂崎、6番ショート広岡、7番キャッチャー森、8番にピッチャー中村(稔)が入っています。9番はセカンド土居。中日ドラゴンズ側は、1番センター中、2番セカンド井上、3番ファースト与那嶺、4番ライト森、5番レフト江藤、6番ショート河野、7番サード前田、8番キャッチャー吉沢、9番ピッチャー石川です。いずれのチームにも往年の名選手の名前がみられますね。
公式記録によれば、中日は坂東投手が先発しましたが5回で石川投手に代わっています。試合は9回に与那嶺の一発が出て2対1で中日の勝ち。わずか3安打に抑えた中村(稔)が涙をのんでいます。

さて、スコアボードの右端には「ライオン歯磨」、左端には「ライオン歯刷子」の看板が掲げられていますね。ライオン歯磨(株)は、このシーズンはじめに、この看板にホームランを当てた選手に賞金をプレゼントすると発表しました。マスコミや関係者に配布した「スーパー・ホーマーとは?」という文書を紹介しましょう。
「日本のプロ野球も今や技から力の時代に移ってまいりました。特にホームランは力のシンボルであり、ファンにとってはたまらない魅力です。アメリカではルース、ゲーリック、ディマジオからマントル、日本でも古くは景浦、宮武から川上、大下、藤村、別当等を経て現在にいたるまでホームランは野球の歴史をはなやかに飾ってまいりました。・・・
 今シーズン、ライオン歯磨では公式戦中、このスコアボールドの名物ライオン看板にダイレクトでホームランをあてた選手にスーパー・ホーマー賞として100万円(スコアボールドだけならば50万円)をプレゼントすることになりました。ちょっと大げさな言い方をしますとプロ野球の打撃向上に一役買いたいというわけです。どうか我と思う選手にどしどしスーパー・ホーマーをあてゝもらい、はなやかな野球ファンの夢を満たしていただきたいものです。・・・」

野球のイメージと言えば、大人も子供も一緒になって楽しめるスポーツ、太陽のもとの健康な汗・・・でしょうか。日常の生活用品を提供するライオンのイメージにマッチしています。スポーツと言えば野球の時代に、ライオンも深いつながりを持っていました。