
小林富次郎は1852(嘉永5)年、武蔵野国北足立郡与野(現在の埼玉県さいたま市)に生まれました。幼い頃は両親の出身地である越後の柿崎村直海浜(現在の新潟県上越市)で、祖母のもとに身を寄せて過ごしました。小林家の菩提寺である光徳寺の寺子屋で、そろばんや和漢書を学びましたが、12歳頃に眼病を患い、一時は読み書きも難しいほどの重い症状に見舞われます。その後、漁場で働きながら療養を続け、少しずつ回復し、16歳の頃には、代々続く実家の酒造業を手伝うようになりました。23歳の時、柿崎村の馬場仁右衛門の娘ハンと結婚し、家庭を持ちました。しかし、幕末から明治へと移り変わる時代の混乱の中、幕府による立ち入り検査で納税違反を指摘され、多額の罰金を科せられたため、小林家の家計は厳しい状況に陥りました。事業の立て直しに力を尽くしたものの状況は改善せず、負債を整理のために家財を処分しなければならないほど困窮しました。

すべての財産を失った富次郎は、それでも将来性のある仕事に身を尽くそうと決意し、1877(明治10)年、25歳の時に上京しました。そして向島小梅(現在の東京都墨田区向島)にあった石鹸工場「鳴春舎」に入社します。当時まだ珍しかった石鹸事業に将来性を感じた富次郎は、自ら製品の売り込みや新しい販売先の開拓に取り組みました。その働きぶりが認められ、翌年には鳴春舎の出資者の一人として推薦され、故郷にわずかに残っていた家財を売って出資しました。1879年、国内の石鹸生産量は輸入品を上回り、鳴春舎の事業も大きく発展し資本金3万円の株式会社となり、富次郎は支配人に就任します。しかしその後は、不況の影響で会社は採算が悪化し、やがて解散しました。富次郎は、株主である問屋に相当量の製品を分け与え、株券を買い取ることで、できる限り損害を出さない形で会社を整理しました。のちに富次郎は、この出来事を「不幸中の幸いでした」と振り返っています。鳴春舎の解散したのと同じ頃、富次郎は兄・清蔵が進めていた官有林払下げ運動にも関わっていました。しかし、内務省の方針転換により、多額の運動費は無駄になってしまいます。こうして富次郎は支配人を辞し、自らの財産を整理して、再び一から使用人として働くことになりました。また、富次郎と妻ハンの間には子がいなかったため、兄・清蔵の四男である徳治郎(のちの二代目小林富次郎)を養子に迎えました。さらにその後、妻ハンの姪イツを養女にしています。

その後も富次郎は、石鹸製造に関わり続けました。やがて、鳴春舎と取引のあった神戸の石鹸製造業者・鳴行社の播磨氏から、新たな事業への誘いを受けます。これを機に富次郎は、神戸の鳴行社で石鹸製造やマッチ軸木の改良、さらには経営全般に携わるようになりました。
当時、石鹸の需要が季節によって大きく変動していたのに対し、マッチの需要は比較的安定していました。富次郎は、質の良い原木とマッチの製造に適した場所を求めて北海道や三陸地方を訪れ、原木の状態を丁寧に調査しました。その結果、北上川が流れ、水運にも恵まれた宮城県の石巻港を製造地に選び、フランス製の新式大型軸木製造機を導入し、大規模で本格的な事業に挑戦しようとしていました。
しかし1890(明治23)年8月、北上川の洪水によって、一年分のマッチの軸木に相当する原木を積んだ無数の筏が一挙に押し流され、下流の橋や流域の家屋に大きな被害が及んでしまいました。その責任を問われた富次郎には、厳しい非難が集中します。あまりの苦しさに、富次郎は濁流の渦巻く北上川へ身を投じようかとまで考えました。しかし、深い絶望の中にいた富次郎の脳裏に浮かんだのは、新約聖書の一節でした。

『どんなこらしめでも、受ける時には喜びではなく悲しみのもとのように見えるが、後にはそれによって錬られた者に平和の実、すなわち正義をもたらす』(要約)
~新約聖書「ヘブライ人への手紙」第12章11節~
1888(明治21)年、神戸の多聞教会でキリスト教に入信していた富次郎は、この言葉に支えられ、「艱難は必ず自分を守る力になる。良心に恥じず頑張ることで道は開ける」と思い直しました。そして、再び事業に取り組む勇気を奮い起こします。
しかし、過労が重なったことで、かねてから患っていた眼病が悪化し、失明に近い状態に陥りました。
富次郎一家は東京へ戻り、療養生活を送ることになります。富次郎を支えたのは、妻のハンでした。ハンは飲食店を開いて家計を支える一方、療養中の夫の看病にも懸命に尽くしました。
8か月にわたる療養の後、富次郎は再び立ち上がります。きっかけは、旧知の間柄である鳴行社の播磨氏が富次郎の元を訪れた際の一言でした。
「できるだけ応援するから、何か商売を始めてみてはどうか」
富次郎一家の状況を気の毒に思った播磨氏が、そう勧めたのです。
まだ十分に身体が癒えてなかった富次郎でしたが、まず石鹸とマッチ原料の取次ぎ販売の小さな店を開きました。病気が治りきっていない身体で得意先を回り、熱心に販売することで信用を得ていき、商売は順調に伸びていきました。
そして1891(明治24)年10月、次なる飛躍を求め、神田柳原河岸(現在の千代田区東神田二丁目)に小林富次郎商店を開業します。事業は順調に発展したため、妻ハンが切り盛りしていた飲食店を閉め、妻子を呼び寄せました。また1893(明治26)年には、横浜にあった金港堂書店に勤めていた養子の徳治郎(後の二代目小林富次郎)を呼び戻し、小林富次郎商店の副店主として家業に従事させました。


創業後の小林富次郎商店は、石鹸原料のもとになるコプラ(ヤシの実)を独占的に買い入れ油を搾って加工することで、大きな利益を得ていました。当時、コプラは外国産の品質が高いとされ、中には国産品を外国産と偽って販売をし信用を失うものもいましたが、富次郎はそうしたやり方を選ばず、価格は安いが品質も劣ることをきちんと伝え販売し、成功を収めたのです。「正直に勝る商略なし」。富次郎は改めてそう確信し、これを経営の基本的な姿勢としています。

家業の倒産、会社の解散、洪水による事業の失敗、そして病による失明の危機。小林富次郎の歩みは、幾度もの困難に立ち向かう連続でした。それでも決してひるむことなく、何度でも立ち上がり、挑戦を続けました。小林富次郎商店の創業に至るまでの道のりは、決して平坦なものではありませんでしたが、その不屈の精神と挑戦し続ける姿勢こそが、のちのライオンの礎となったのです。
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