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代替品の活用

引き続き「省資源」をキーワードにした歴史資料を閲覧しましょう。時代背景も同じ日中戦争から太平洋戦争の、いわゆる戦時体制下で極端に物が不足していた頃のことです。

代替品

政府は軍事を優先した資源配分を行いましたから、人々の日常生活は大きな影響を受けました。そんな中で人々は代替品という知恵を発揮しています。
「松葉マッチ」という代替品が考案されています。それまでのマッチの軸木はアメリカ産の泥柳を原料としていたのですが、それを松の葉にしたものです。材料がいつでも入手できて生産工程も少ないという長所があったようですが、やはり軸が柔らかくて使いにくかったようです。
ブリキ製のバケツに代わって木、竹、紙製のバケツもありました。木といえば、自転車の空気入れも口紅の容器にも木製の品が発売されています。
そして、陶器で代用した学生服のボタンがあります。金属類の回収で学生服から金ボタンや衿章が徐々に姿を消していきました。
通称「愛国きせる」と呼ばれた代用きせるは、本来は金属の吸い口とがん首を陶器で代替したもの。煙草の巻紙不足で、刻み煙草派の増加に対応したものでした。電気アイロンに代わって陶製のアイロン(熱湯アイロン)、何年でも使える陶製の鏡餅など多くのものが陶器で代替されました。

歯磨(ハミガキ)

「ライオン歯磨 カートン入り」の発売広告
1939(昭和14)年

ライオン歯磨本舗小林商店は、国策に順応して歯磨の空チューブ(錫資源)回収運動を展開しましたが、そのような状況下では煉ハミガキの安定供給は困難をきわめ、積極的に販売できなくなりました。従って、再び粉ハミガキを中心に販売しなければならなくなりました。

1939(昭和14)年1月には「ライオン歯磨カートン入」を新発売しています。カートンは写真の様に丸い筒状の紙器です。
この「ライオン歯磨カートン入」について、当時の広告コピーを見ると、「粉歯磨再認識時代に生まれた粉歯磨!」、あるいは「物資統制が益々強化されて参りましたので、我社に於ては容器材料の将来に鑑み、国策適応の『カートン入』を製造致しました」と云うような表現が見られます。

1940(昭和15)年6月には、「時局向容器じきょくむきようき」である硝子容器に入った「潤製ライオン歯磨大壜」を新発売しています。(下写真の広告)
このハミガキを新発売した時の販売店向け「発売趣意書」を見てみましょう。どのような状況下で発売したのかがよく分かります。
戦時体制下ですので、勇ましい文語調が好まれ、この趣意書もそうなっています。とても難しい言葉使いをしてありますが、ふりがなを付けましたので ぜひその雰囲気を味わって下さい。

「潤製ライオン歯磨 大壜入」の発売広告 1940(昭和15)年

御家庭向ごかていむきライオン歯磨潤製大壜入新発売はみがきじゅんせいおおびんいりしんはつばい付謹告つききんこく・・・楮弊社製品潤製歯磨さてへいしゃせいひんじゅんせいはみがき時局下最適じきょくかさいてき必需品ひつじゅひんとして益々需要集中絶賛ますますじゅようしゅうちゅうぜっさんはく候段感謝そうろうだんかんしゃいたりに奉存候然ぞんじてたてまつりそうろうしか處時局ところじきょく進展しんてんともな諸原料材料しょげんりょうざいりょう入手難一段にゅうしゅなんいちだん加重かじゅうせられ候為そうろうた製産せいさん需給じゅきゅう関係之かんけいこれともなはざるのうら有之自然御取引先各位ありこれしぜんおとりひきさきかくい御販賣上勘ごはんばいじょうすくなからざる御不便相掛候段恐縮ごふべんあいかけそうろうだんきょうしゅくいたりは存居候ぞんじておりそうろう・・・
研究けんきゅう結果資材難けっかしざいなん折柄おりがらにはそうらへども国策こくさく立脚りっきゃくしたる容器ようきにより潤製歯磨じゅんせいはみがき特質とくしつ保持ほじせしむるととも衛生的経済的えいせいてきけいざいてき見地けんちより新製品しんせいひん完成かんせいれを御家庭向ごかていむきとして潤製大壜入じゅんせいおおびんいり名稱めいしょうもとに(優美ゆうびアメジスト色硝子容器いろがらすようきあらたに発賣致候はつばいいたしそうろう付何卒前陳つきなにとぞぜんちん事情御諒察じじょうごりょうさつ上潤製歯磨罐入うえじゅんせいはみがきびんいり同様どうよう御吹聴御擴賣被下候切ごふいちょうごかくばいくださりたくそうろうせつ奉希上候ねがいあげたてまつりそうろう・・・」

この頃の当社社内報「ライオンだより」(№157)に、興味深い記事が掲載されています。
「容器の再生運動!容器は再使用出来るものを案出せよ」という記事で、「先年廃品回収が叫ばれたが一時休息状態であり、・・・我国は独逸が第一次世界大戦で受けた程の打撃を受けた事がない為、物の節約の点では誠に消極的なのは全く遺憾である。・・・」
と警告し、容器と包装の再使用を問題提起しています。
ところがここで云う「再使用」の意味が、今日とは異なっています。ここで云う再使用とは、ハミガキの容器などを墨汁入れ、海綿入れ、ピン入れ、切手入れ、煙草入れとしたり、灰皿として活用することなのです。

そして、この記事は広告のあり方までに及び「これからの広告は売らんがための広告から、(使い終わった)容器や瓶は砂糖入れや食塩入れに御使用下さいというような知らせを行うべきではないか」と述べているのです。なるほど、これも再使用ですね。

紙函入の「ライオン歯磨澗製二号」
1941(昭和16)年

歯磨の紙製容器はさらに続きます。
1941(昭和16)年5月に新発売した「ライオン歯磨潤製二号」は「時局下原料資材の入手難に対処し、現下の国策に立脚したる瀟洒しょうしゃたる紙函入」でしたが、これは下の写真の様に薄手の紙を使った簡易包装で、カートンより紙の使用量をさらに減少させたものでした。
同年9月には、商工省令「鉄製品製造制限規則」が告示せられ、ハミガキ用品の容器や蓋にブリキ、アルミを使用することが禁止されました。これにより、小林商店では罐容器入のハミガキが製造できなくなり全てが紙器となりました。

また、容器の制限だけでなく、ハミガキの品質そのものについても規制されるようになりました。
日本の敗戦が濃厚になった1943(昭和18)年10月21日には、商工省告示により、潤製ハミガキ、煉ハミガキの製造が禁止され、粉ハミガキだけの製造が許されるという状況になりました。しかも、その粉ハミガキさえ原料配合規格が次の様に統制されてしまいました。

「粉ハミガキ規格」

  1. 製品規格180メッシュ以上
  2. 炭酸カルシウム、ゼオライトまたは塩97%以上
  3. 薬品、香料、薄荷脳または薄荷油0.5%以上
  4. 1号または特号粉末石鹸もしくは高級アルコールの硫酸エステル塩0.3%以上
  5. 水分2.2%以上

こうなると銘柄が違っていても中身は同じで、各メーカーが永年にわたって築いてきた品質の信用が失われてしまいました。
戦後、1949(昭和24)年、(株)小林商店は社名をライオン歯磨(株)と変更しますが、新製品を発売するにあたり、チラシ「新製品ライオン粉歯磨に就て」を作成しました。この中で、この統制歯磨について次のように言及しています。
「戦争中の粉歯磨がザラザラして居たのは、軽質の炭酸カルシウムがほとんど出来なくなって、重質の炭酸カルシウムを原料として使ったからです。・・・今回、軽質炭酸カルシウムを使用することにしたので、歯の琺瑯ほうろう質を保護し、吸着力を増大して、口腔衛生上、良心的歯磨の生産をすることになりました。」

歯刷子(ハブラシ)

(株)小林商店は1917(大正6)年、「萬歳歯刷子」を発売した時から、柄の材料として、熱湯消毒に耐えて清潔だからという理由で牛骨(脛骨)を使用していました。
ところが、戦争の影響で牛骨の供給が不足してきました。そこで、1939(昭和14)年10月、国産の耐熱性合成樹脂「リオライト」(尿素樹脂)を使用した「ライオン歯刷子」を発売しました。

竹柄で簡易包装の「ライオン歯刷子」1942(昭和17)年

1941(昭和16)年3月には、竹芯セルロイド柄のハブラシを発売しました。貴重な資源であるセルロイドの使用を最小限に押さえる工夫から生まれたものです。
しかし、このリオライトやセルロイドも軍需優先となり使用できなくなりました。
そこでやむなく1942(昭和17)年2月には、竹柄のハブラシを発売、5月には木柄のハブラシを発売しています。1本毎のサック包装もセロハン不足により、パラフィン紙が登場しました。

(株)小林商店の主力商品であった紙袋入りの粉歯磨と竹柄の歯刷子

話は変わりますが、戦争中、体力を増強して国家に報いるという「健康報国」のスローガンがありましたから、国をあげてむし歯根絶が奨励され、歯みがきが奨励されました。1940(昭和15)年末からは、それまで(株)小林商店ライオン歯磨口腔衛生部が主催していた「歯磨教練」が大日本健康報国実践会という国家的機構の下で行われるようになったくらいです。
しかし、戦争から敗戦、そして復興するまでの間、人々にとっては、その日を生きることが精いっぱいで歯みがきどころではありませんでした。
ところが、この期間中、日本のこどもたちのむし歯の罹患率は大幅に低下したのでした。むし歯の最大の原因である甘いものが欠乏していたからです。

石鹸

石鹸の場合は原料となる油脂やアルカリ類が不足していましたから、洗浄力のある代替物質を混入して増量し省資源化を図りました。1942(昭和17)年8月から、石鹸は配給制になりました。
割当量は都市部の4人家族で月2個、地方の家庭は1個でした。しかも、労働者向けの配給品は商工省の指導によって産み出されたベントナイト(粘土の一種)を70%混入した石鹸(戦時石鹸と称しました)だったのです。
そして翌年4月からは、全ての石鹸がこの戦時石鹸となりました。

配給時代の看板

このベントナイト混入石鹸を実用化するために、商工省と石鹸業者は不足物資対策協議会(石鹸部会)を発足させ、1941(昭和16)年10月10日に第1回の会議を開催しています。
翌年1月26日の第3回会議では、商工省規格固形洗濯石鹸と石鹸分50%ベントナイト50%の試作洗濯石鹸の洗浄力試験の報告があり、実用化の問題点や課題が討議されました。この席で、ライオン油脂(株)は次のようにベントナイト混入石鹸に反対しています。
「・・・ベントナイトは中性コロイドとして澱粉でんぷん膠質こうしつ化学的性質酷似す、即ち単に水または石鹸液の粘度を著しく増加せしむる作用あるのみにして、積極的に洗浄作用を有せず。石鹸液の粘度を増加せしむることに依り、石鹸の泡の持続性を増加せしむるに過ぎず、石鹸の洗濯作用に好影響を与へざることは、その界面活性度に影響なきことを以て見ても明なり。・・・石鹸に30%以上ベントナイトを混入せば著しく崩壊性を増し、(かえって)石鹸を浪費せしむる欠点を生ず。崩壊性を減少せしむる二、三の工夫あるも、未だ充分解決せりと称し難し。」
しかし、「崩壊試験は洗濯石鹸に必要なき」など商工省側の方向は決まっており、この年の下期から石鹸分30%ベントナイト70%の戦時石鹸が発売されたのです。

ベントナイト入戦時石鹸

さらに、1944(昭和19)年に入るとカオリン(陶土)の混入さえ認められ、同年8月には混入率80%の新3号石鹸まで配給されました。
これらのベントナイトやカオリン混入石鹸は、使用後には文字通りドロドロに溶けてしまう石鹸だったそうです。
なお1942(昭和17)年後半からは、化粧石鹸という名称は浴用石鹸と改称されて、翌年からは浴用・洗濯石鹸の区別がなくなり、家庭用石鹸に統一されていました。

これまで、極端に物が不足した中での省資源化の例を見てきました。こんなことまでと驚かれた方もおありでしょう。
現在は当時の状況と大きく変わりましたが、引き続き地球環境を護るための省資源の試みを目指してまいります。

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