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映画(サイレント~トーキーの時代)

口腔衛生映画の制作

さて、映画と言えば、当社との関係もなかなか興味深いものがあります。
ライオン歯磨本舗小林商店が最初に映画を活用したのは、口腔衛生の普及活動「ライオン講演会」においてでした。
1913(大正2)年に開始したこの活動は、文字通り「講演」で始まったのですが、より楽しくより興味を引くために、掛図や幻灯が用いられるようになっていきます。そして、時勢の進展につれて映画を採用することになったのです。
しかし、口腔衛生の普及活動に適した映画がないので、(株)小林商店は自らそのための映画を創作したのです。「知恵と歯は」という題名の映画で1922(大正11)年のことでした。

ライオン口腔衛生部制作 「良心のきらめき」1926(大正15)年

これは当時、内務省が募集した民力涵養かんよう標語の入選作「知恵と歯は毎日磨け」を映画化したもので、サイレント(無声)映画でした。
続いて同年、「口腔衛生」という映画を完成させています。やはりサイレント映画で8巻からなる大作でした。
この映画は、当時の説明書きによれば、「わが国最初の口腔衛生科学映画」で「栄養と咀嚼、齲歯と全身病、乳歯の交換、六歳臼歯、齲歯の発生、齲歯の予防、家庭に於ける口腔衛生、歯科的社会施設の実施せる状況を引用し、又は線画により通俗的に健康との関係を説明せる映画」とあります。
1926(大正15)年には教育映画「良心のひらめき」(サイレント、全4巻)を制作しています。当時の文部省推薦映画になったこの映画のストーリーは、上の映画案内をお読みください。

野口英世をモデルにした映画「栄冠」1926(大正15)年

この後、1928(昭和3)年には「歩哨」と「愛歯に燃ゆる心」を、1930(昭和5)年には「栄冠」を、1932(昭和7)年には「あゝ酒井大尉」を制作しています。いずれもサイレント映画で、物語の中に歯の大切なことを啓発する内容が含まれたものでした。
なお、「栄冠」には〔検閲番号H第6,746号、全6巻1,634米〕、「あゝ酒井大尉」には〔検閲番号G第8,611号、全3巻691米〕と記してあり、当時、検閲制度があったこと、そして、映画の長さを巻数と米(メートル)で表わしていたことがわかります。

「新作トーキー発表会」プログラム表紙1934(昭和9)年

1934(昭和9)年、(株)小林商店は初めてトーキー(発声)映画を制作しました。題名は「あなたはどちら」。内容は、寝る前に歯をみがくことの大切さをコミカルなタッチで表現したもので、キャッチフレーズには「ナンセンス映画」とも書いてあります。
(株)小林商店はこの映画を発表するにあたって一工夫しています。
同年6月22日、学校歯科医令公布3周年記念の「講演と新作トーキー発表大会」(日比谷公会堂)で封切りしていますが、この時、映画に題名をつけないまま“新作トーキー『?』”として上映しました。
題名はこの映画を見た人につけてもらう懸賞募集(当選者1名に賞金30円)としたのです。
この結果、多数の応募の中から「あなたはどちら」と決定したのでした。
題名が決まると、7月14日には「公衆衛生講演とトーキーの夕べ」(東京・九段軍人会館)において「懸賞題名披露の催し」を行っています。

「新作トーキー発表会」プログラム 於 大阪・国民会館
1934(昭和9)年
「新作トーキー発表会」チラシ
1934(昭和9)年
「舞踊と映画の会」プログラム表紙
1934(昭和9)年

そして、全国各地で「新作トーキー発表会」を展開していきます。
この時、一緒に上映された映画には、フランス映画「にんじん」、イギリス映画「潜水艦応答無し」、ドイツ映画「制服の処女」、アメリカ映画「或る夜の出来事」、「ミッキー漫画」、それに邦画「エノケンの青春酔虎伝」などがあります。映画ファンでなくてもわくわくするような題名ですね。

「ご愛用者招待会」プログラム表紙
1934(昭和9)年

そして、なんとも驚かされることなのですが、「栄冠」と「あゝ酒井大尉」の原作者向井八門は当時のライオン歯磨口腔衛生部長向井喜男(後に日本学校歯科医会会長、藍綬褒章受章)のペンネームなのです。向井氏は「あなたはどちら」では脚色・監督もこなしています。
また、「歩哨」の原作者は口腔衛生部の岡本清綴(後にライオン児童歯科院院長、愛知学院大学名誉教授)です。お二人のマルチタレントぶりにはびっくりですが、映画の黎明期なので、より良い映画作りのためにここまで努力されたのですね。

ご愛用者招待「映画の会」

「ご愛用者招待会」プログラム表紙
1938(昭和13)年

(株)小林商店が映画を活用したのは口腔衛生普及活動の場ばかりではありません。
この時期、大河内伝次郎や嵐寛寿郎といった剣劇スターがさっそうと登場した映画界は黄金期を迎えていました。人々の最高の娯楽といったら映画といって間違いない時代でした。
そこで、(株)小林商店は販促活動のひとつとして積極的にライオンハミガキ・ハブラシのご愛用者を「映画の会」へ招待したのです。

映画鑑賞会の入場券
1938(昭和13)年

映画を見たい人は、ライオンハミガキやハブラシの袋を販売店に持参して入場券に引き換えてもらうのです。会場は映画館ではなく、公会堂など公共の施設を使用しましたから、多くの人が安い料金で映画を楽しむことができたのです。

招待会は「思ひ出の名映画鑑賞会」のように映画だけの会もあれば、「映画と舞踊の会」のことも、また音楽会と一緒に、あるいは各種演芸と一緒に行われることもありました。
こども大会では、アメリカ映画「オーケストラの少女」などが上映されています。極彩色の「ミッキー発声漫画」は必ずプログラムに入っていました。

映画の上映サービス

「映画の栞」より使用映写機の紹介(左)と
16ミリ映画の目録(右) 1936(昭和11)年

(株)小林商店は、お客様の要望に応えて映画フィルムの貸し出しと上映サービスも行っていました。
そのために、1936(昭和11)年には上映サービスの規定と映画フィルムの目録を掲載したパンフレット「映画の栞」も用意しています。
このパンフレットから「映画御申込規定」を見てみましょう。

A、御申込は一週間前
B、警察への許可願は申込者側にて為され度きこと(許可願用紙及認可台本宣伝ポスター等は当方にあり)
C、会場費、電気使用料は申込者に於て御負担のこと
D、講師、技師、機械、フィルム等一切当方負担
E、右以外に特別に要する費用は御相談の上決定

とあります。
つまり、お客様の要望にお応えして出張して上映サービスしていたのです。そのためにライオン歯磨口腔衛生部は「映画班」を編成していました。
貸出用の映画フィルムは[16ミリの部] 15作品、[トーキーの部] 13作品、[サイレントの部] 21作品を準備していました。
これらの作品の中には、口腔衛生映画の他に日活の「僕らの弟」などの劇場映画、「茶目子の一日」などの漫画映画、そして「ライオン歯磨の出来るまで」という商品紹介映画も含まれています。

映画が大人気といっても、映画館の数は限られており、だれでも手軽に見られたわけではありません。そんな時代ですから、ライオン歯磨本舗(株)小林商店は、映画フィルムや映写機など機材を一切用意し、それに映写技師までも派遣して人々の要望に応えたのです。
映画の出張サービスは、町や村の催事や学校の記念行事をより一層盛り上げたに違いありません。多くの人が公民館や学校の校庭で行われた映画会に駆けつけたことでしょう。
なお、残念ですが、ここでご紹介した映画フィルムのほとんどは、戦災などもあって残っていません。 その後「あなたはどちら」だけはフィルムが見つかり、2022(令和4)年に国立映画アーカイブへ寄贈いたしました。

ここまで、サイレントからトーキーに移り変わっていく映画の黎明期に、当社が映画とどのように関わったかを見てきました。
その後、日本が戦時体制に入ると映画も軍国主義の強い作品一辺倒になって行きました。太平洋戦争の末期にはそれこそ映画どころではなくなりました。
そして、終戦。
それでは、当社と戦後の映画に関する資料を見ましょう。

映画(焼け跡~全盛期へ)

1945(昭和20)年3月10日未明の東京大空襲で、(株)小林商店は墨田区厩橋の本社社屋・工場を焼失しました。
焼け跡からの復活は、なによりも生産活動を再開することでした。そして、一応の生産体制が整うと、1948(昭和23)年には早くも口腔衛生普及のための「講演と幻灯の会」活動を再開しています。
1950(昭和25)年には映画班も復活しました。
(1949(昭和24)年、社名をライオン歯磨㈱に変更)

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